胆振東部地震 体験記 前編(電気のない大地 縦断の旅)

2018年9月5日から日付が変わって9月6日の深夜1時。僕は北海道最北端の街、稚内にある公園で野宿をしていた。野宿といっても、ベンチに寝転んでいるだけ。寝袋もテントもなかった。

色々あって、北海道が好きな友人も一緒に野宿をしていた。

深夜1時ごろから公園のベンチに寝っ転がり、他愛のない会話をしていた。仮眠する予定だったが、前日の台風の影響でか、風が強く、気温も低かったため、二人とも凍えていた。

9月の頭だというのに、寒すぎて「寝たら死ぬぞ」と言いたくなる気温だった。

我々は、翌朝の5時20分の汽車に乗ろうと思っていたが、それまで公園にいると死んじゃうので、「3時になったらすき屋に行って、朝飯食べながら1時間ぐらい粘ろう」と決めていた。

稚内市内で、24時間営業している店舗はすき屋ぐらいしかなかったのだ。

3時01分頃、しゃべりながら私は時計を見て、3時を過ぎてることを確認した。が、声には出さなかった。3時は過ぎたけど、時間はあるし、あと10分ぐらいここに居ようと思った。

たかが10分だったが、僕らにはそれが辛かった。寒くて寒くて…苦笑

結局5分経ったところで限界がきた。「よし、行こうか。」と僕は言った。時刻は3時07分だった。

「あーーーーー、さみぃぃぃぃぃーーーーー」

と、2人で心の叫びを漏らしつつ、ベンチから起き上がる。

立ち上がると激しい立ち眩みに襲われ、身体のバランスを崩した。恐らく、この瞬間、稚内市は震度3の地震が発生していたが、地震の存在に気づくのはもう少し先の話である。

低体温だろうと推測し、体をふらつかせながら歩きだそうと思ったときだった。

”フッ・・・・・・”

突然、ベンチのすぐ隣にあった公園のトイレの電気が消えた。

「え、3時に電気消すとかどんな中途半端だよ」と、僕は言った。タイマーで電気が消えたと思ったからだ。元々周囲の灯りはトイレだけだったので、とりあえず公園の外へ向けて2人で歩き出した。

異変に先に気づいたのは友人の方だった。

「あれ????」

見渡す限り、電気らしい電気がついていない。そして目の前の信号を見上げて確信した。

「停電だ。」

風が強いし、どっかで送電線切れたんだろうと私は思っていた。

周囲の民家から、何人か懐中電灯をもって外の様子を伺う人の姿が見られた。

真っ暗だったので、僕が持っていた手回し式の懐中電灯を取り出し、街を歩きだした。

まだただの停電だと思っている我々は、少しテンションが上がった。

「すごい、稚内市内が真っ暗だ。こんなの滅多に見られんよ…」

道中で友人は何枚か写真を撮っていた。

しかし、2人とも寒さの限界。料理を提供できないことは百も承知で、すき屋へ急いだ。

店の入り口で店員さんに

「ちょうど来ようと思ってたところで停電になっちゃったんですけど… 料理なくて大丈夫なので、復旧するまで待たせていただいてもいいですか?」

と聞くと、店員さんは快く承諾してくださり、店内へ入れていただいた。他のお客さんはいなかったが、店員さんは3名ほどいた。店舗は僅かな非常用電源があったため、薄明かりが付いていた。

ここで、寒そうにしていた我々を気遣って、温かいお茶を出してくださった。

このお茶を飲んで生き返ったことは言うまでもない。

店員さんも不安そうな表情で、「あっちも停電してますか?」と聞いてきた。見渡す限り停電していることを伝えると、店員さんは事務作業にもどった。

早速、2人でスマホを取り出し、状況を調べる。

私はとりあえずグーグル先生で「稚内 停電」や「北海道電力 停電情報」などを検索したが、何もヒットしない。。。しかも、北海道電力のHPには入れない。

「おかしい。」 このあたりから、嫌な雰囲気を感じ始めた。

検索するツールをTwitterに変更すると、道内のあちこちで停電していることが分かった。2人で手分けして検索する。

「稚内は全域ダメそう。。。旭川もだ、あ、札幌も、え?函館も???」

そして核心的情報を見つけた。

「北海道で震度7の地震発生」

一瞬にして凍り付いた。私も友人も、北海道に関することならあらかた把握している。北海道で震度7を観測したことないことも、感覚的にわかっていた。

「震源は?」「胆振…」

ここで2人とも、地震のやばさを感じた。胆振で震度7なら新千歳空港の被害は計り知れない。苫小牧港の岸壁が崩れてもおかしくない。そもそも札幌の都市機能が生きている保証すらない…

被害の大きさは想像もつかなかった。

しかし、なぜ稚内が停電しているのか。送電線でも倒れたんだろうか… そんな想像、怖くてできなかった。

ひと通り情報を集めたところで、各所に無事であることと返信できないことだけを伝えて、スマホを閉じた。充電温存の始まりである。何せホテルに宿泊していなかったので充電残量に余裕がなかった。

この大地には電気がない、ということを自覚し始めた。

一息ついて、これからどうしようかという作戦会議を始めた。ここ稚内に残るのか、それとも他の街に行くのか。

結局二人で決めたことは、旭川を目指して移動しようということ。友人がその日の夕方から旭川でレンタカーを借りる予定だったので、それを宛てにすることにした。車を借りれば電源が確保できるし、寝る場所もある。着けるかわからないけど、とにかく行ってみよう、と。

微かな希望を信じるしかなかった。

だが、まだ外は真っ暗。信号の消えた道路を走っている車もあって危険。そのうえ、まだ店も交通機関も動かない。しばらくお店で待機させてもらった。水道が使えたので、お手洗いを借りた。停電しているので、手回しの懐中電灯をうぃんうぃん回しながら入った。

そして入店から1時間半ほどしたとき、店を後にすることにした。店員さんにお礼を言うと共に、頑張ってください。とお互い声をかけ、太陽に照らされた稚内の街に繰り出した。

9月6日4時45分 電気を失った大地を舞台にした旅が始まった。

旭川への道は一つ ヒッチハイク

情報収集のため、まずは宿直の駅員さんがいる南稚内駅へ行った。当然駅舎は真っ暗だったが、鉄道の信号機はついていた。

▲電気の消えた南稚内駅の待合室と改札口

さっそく駅員さんに状況を尋ねたが、今日は走らないねぇ~と言われた。お礼を言って、速やかに駅を後にした。

列車移動の選択肢が消えたので、時間を気にする必要はない。早速食料の確保へ向かった。これが最優先課題だった。自宅がある地元民と違って、旅行中の我々には備蓄がない。宿にも泊まっていないので非常食を提供してくれるところもない。

必要な食料は持ち歩くしかなかった。

さっそく最寄りのコンビニ、セイコーマートへ。停電でレジが動かない可能性や、店員さんが出勤して来ない可能性もあったが、他に行くところもないのでとにかく行ってみた。

すると、店のドアは開いており、店内には人影が。営業しているようだ。

入り口を見ると、エンジンのかかった車と、そこから延びるケーブルが。これでレジの電源は確保してるようだった。なんと素晴らしい発想だろうか。この対応方法が多くの店舗で実施されたため、セイコーマートは多くの店舗で営業できたのだとか。恐るべし…セイコーマート・・・

店員さんに尋ねると、電気はつかないが、営業はしているとのこと。さっそく手分けして買い物。日持ちするもの、おなかにたまるもの、甘いもの、必要な物を手分けして、集めた。

1日分の食料を確保した我々は、歩いて稚内駅を目指した。稚内駅に行けば、バスの案内所もあるので、何かわかるかもしれない。

30分弱歩いて稚内駅に到着。さっそく宗谷バスの窓口へ。すると、待合室に防災用のラジオが置かれていた。さほど人も多くなかったので、ラジオの近くに座り、聞きながらバスの時間を調べた。このラジオによって、地震の状況やブラックアウトのことが分かった。

友人が北海道時刻表を持っていたので、それで早速バスの時刻を調べる。ターミナルの前には、5時45分発の浜頓別高校行のバスが止まっていた。

発車まであと5分程度だったと思う。乗るべきか乗らないべきか。

北海道オタク2人の脳をフル回転させて考えた。バスで南下するならあれに乗るかしかない。でも旭川までかなりの遠回り、しかもその先のバスが走る保証はない。

でも次のバスは約3時間後…

結局乗らなった。理由は2つ。この先の路線が走らない可能性が大きかったこと。そして、2人とも手持ちの現金が少なかったこと。2人とも5000円ちょっとだったと思う。バスに乗ったらこのお金がほぼなくなることが分かっていた。ATMも停電で動かない。でもレジが動かないから電子決済は無理。

電気がないこの大地では、現金が命綱だった。

そんな会話をしていたら、周囲の人に声をかけられた。「函館まで列車で行こうとしていたんだけどどうすればいいんでしょうか…」「JRは動かないのかしら?」「札幌に行きたいんだけど…」

僕らもパニックの中、すべてに対応している暇はなかった。とりあえずバスの案内所の方に、南稚内の駅員さんから聞いた話などを伝え、JRが絶望的であることも周囲の人に伝えた。

本当は一人一人の質問に答えたかったが、僕らにも余裕はなかった。断るのが辛かった。

そして2人で出した結論は、とりあえず45㎞ほど南へ行ったところにある、幌延に行こう、ということだった。幌延に行けば別のバス会社があり、旭川方面のバスもある。しかも2人がよく行く町なだけに勝手がわかっている。頼めば今夜泊めてくれそうな宿もある。

でも、幌延までの路線バスはない。JRは運休。そうなったら残る選択肢は歩くか走るか自転車か車か…

「よし、ヒッチハイクしよう」

僕は言い放ち、すぐにリュックからヒッチハイク道具を出した。実は数か月前から、何度かヒッチハイクをしていたため、道具を持ち合わせていた。

紙を地面に置き、赤いポスカを手にして書いた。”旭川方面”

やると決まったらすぐにやろう。ということで、すぐに荷物をまとめて周囲の人に別れを告げて出発。

午前6時20分。小雨の降る稚内駅前からヒッチハイクスタート。

車捕まらず 歩いて南稚内へ

稚内駅前は、街の構造的に交通量が少ない。まったく通らない訳ではないが、駅前を通る車のほとんどが短距離移動の車。そのことはわかっていたので、ヒッチハイクをしながら歩いて南稚内へ向かった。

南稚内の駅を過ぎたところで立ち止まってヒッチハイクを開始。しかし、朝の忙しい時間とあってか、反応なし。しばらくすると、若い男性の方に声をかけられた。

「もう少し先にある交差点でやるといいよ」と教えていただいた。さっそく2人で移動した。

20分ほど歩いて、潮見4丁目交差点まで来た。ここは国道が二手に分かれている大きな交差点で、信号機も動いていた。

ここでヒッチハイクを再開。すると直ぐに、幌延の少し先、天塩まで行かれるという方に声をかけていただいた。

こうして、無事に稚内を脱出。時刻は7時半過ぎ、停電から4時間半が経過していた。

沿岸バスは運休 ヒッチハイク再び

8時20分 幌延駅前に到着。乗せていただいた方にお礼を言ってお別れした。

ひとまず駅舎に入って駅長さんに一応確認してみるが状況変わらず。さらに、頼みの綱だった旭川方面の沿岸バスは、道路の信号が使えないとの理由で全便運休していた。

駅の待合室をお借りして遅めの朝食にした。疲れていたが、先を急がねばならない。

駅でお手洗いを済ませたら、荷物をまとめて出発。町内ではイベント用の発電機をトラックで運んでいた。主要な施設に運んでいるようだった。市街地を歩いて抜けて、幌富バイパスの入り口に向かった。

ここなら旭川方面の車も通るはず。そう信じるしかなかった。

▲ヒッチハイクをした、幌富バイパスの入り口

幌富バイパスの入り口に着いたのが9時12分。ここでヒッチハイクを再開。だが、思ったよりも車の通りが少ない。停電で、ガソリンスタンドのポンプが動かないので車に給油ができない。長距離移動する人なんていないのでは… そんな思いが頭をよぎった。

嫌な雰囲気を感じつつ、15分ほど待つと、1台の車が止まった。

「お兄さんたちどこ行きたいの?」
「どこまで大丈夫ですか?」
「旭川までいいよ」

旭川までは直線距離で150㎞もある。「神か!!!!!!!」2人ともそう思った。

早速乗せていただき、幌延を出発。途中まで道が分からないとのことだったので、道民以上に土地勘のある2人で案内。雄信内大橋を渡り、国道40号線へ合流。旭川方面へ南下する。

車内では、常にラジオを流していた。これを通じて、ようやく地震の全容把握をすることができた。また、これまでの経緯を話した。寝ていないことや、携帯の充電をしていないことも話すと、「これで充電していいよ」「眠かったら好きに寝てていいよ」と、色々お気遣いいただいた。

停電後、ずーっと気を張っていた我々は、あの方の優しい言葉で緊張の糸が切れ、ひと心地つけた。この時の方には本当に感謝しかない。

士別から高速に入る。ETCは通常通り動いていた。そして旭川鷹栖で高速を降り、旭川駅前で降ろしていただいた。12時40分だった。想定よりかなり早い到着。

ここまでの道中で、レンタカーの貸し出しが停止されているという情報をインターネットで得ていたが、一応確認しようということで店舗に行く。しかし、結果はダメ。

旭川まで苦労して来た意味はなくなり、話は振り出しへ戻ってしまった。

とりあえず昼飯だ、ということで、近くのセイコーマートで食料を買い足し、旭川駅前広場のテーブルでご飯を食べる。ちなみにこの店舗は、車から電源を取るのではなく、電池式の手持ちレジだった。(新幹線の車内販売で使われている端末をイメージしてもらうと分かりやすい)

この先の予定など考える元気もなく、ぼけーっとご飯を食べ、食休みをしていた。気持ちのいい快晴だった。電気と信号が消えていることを除けば、まあまあ日常通りの光景だった。

でも、イオンは閉まってるし、各ホテルの前にも行き場に困った人達がいた。ここで私はあることに気づいた。日常となんら変わらないオーラを発してる大きな大きな建物が目の前にあったのだ。この場所に来たことに運命を感じるような出来事だった。

長くなるので今回はここまで。

次回、旭川での奇跡の後、札幌へ向かいます。

胆振東部地震 体験記 後編(電気のない大地 縦断の旅)

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